オリヴィエ・アサイヤスの『クリーン』(原題”Clean” 2004年)を見る。前作の『デーモンラヴァー』の救いのなさに打ちのめされていたので、同様のテーマを含みながらも本作には勇気をもらえたところも大きい。
エミリー(マギー・チャン)は、やりたくもない仕事の面接から帰ってきて、友だちにこう言う。「私に選択はない。刑務所で学んだのは、順応するってこと。息子に会うためなら、クズみたいな仕事でもクズみたいな人生でもやらなきゃならない」
ミュージシャンの夫リーの生前、マネジメントをしてたエミリーは、夫は大手レーベルと契約して当然だと言って、周りの、小さい仕事からコツコツと、と言った意見を退けていた。リーの突然の死は、自分たちに選択権があるという世界観を一変させる。薬物中毒で収監された刑務所から出たあとは、金も無く、薬物治療中の身では息子の養育権もなく、なんとか「普通の生活」を立て直そうと、パリでコネを頼りに駆けずり回るけどうまくいかない。親族の営むチャイニーズ・レストランでウェイターをしながら就活をする日々。
夫の両親と暮らしている息子ジェイを義父アルブレヒトがパリに連れて来てくれることになって、ジェイと会うために、これから一緒に暮らしていくために、彼女はメタドン(ヘロイン治療薬物)もやめてクソみたいな仕事でもなんでもを見つけなきゃならない。
やりたいことがあって自分に選択権があって、でも現実との乖離のなかで薬に手を出したり借金したりする「ジャンキー」な人生と、やりたくないことでもなんでもやるしかなくて流れに逆らわず順応するクソみたいな人生という2局面がエミリーの前にあって(それは僕たちにも常にある)、それは定点のようにふたつにひとつというように直面する。
エミリーはパリ、北駅のホールで義父アルブレヒトからジェイが会いたくないと言ってることを聞かされ、またもや運命に敗北するように逃げ去ろうとする、、階段を駆け下り雑踏のなかを走り抜けるエミリーの映像が目眩をもよおさせるとき、彼女はどちらの定点にもなく、そのあいだで動きと感覚が一緒くたになっていて、そして、エミリーは立ち止まり振り返り、アルブレヒトのもとに戻ることにする。
それは、運命や物語に対して、選択権があるかないかとか、ジャンキーに生きるか順応するかとかみたいな、ふたつにひとつの定点の取捨選択ではない、別の感覚の仕方があるんだと思う。
エミリーは、獄中で出会ったミュージシャンとの楽曲制作のチャンス(それはもうラストチャンスかもしれない)が目の前にあって、同じ目の前に息子との生活(これもラストチャンスかもしれない)があって、目に見える形でふたつにひとつの定点が点滅しているように感じる。
アルブレヒト(ニック・ノルティ)はエミリーにこう言う。「生活が順調なときは簡単なんだ。でも人生は難しいし大変で、でもそういうときこそ特別なんだ」
アルブレヒトも難しい局面にある。妻がもう長くは生きられないことがわかり、ジェイをこれからひとりでいつまで面倒見られるかわからない。
きっと人間一人きりなら、運命、あるいは物語の抗えない流れのなかで、ふたつにひとつの選択をするほかないって感じるのかもしれないけど、定点の間にあるふたりなら、選択を猶予したり先延ばしたりもできる。いや、そもそも世界が定点観測できるなんてのが間違ってるし、「正しい」選択なんてない、あるのはその描線でしかないってことなのかなと思う。
