2月29日

朝、8時にセットしたアラームの1時間前に目が覚める。久しぶりに夢も見てないし頭もスッキリしている。でも、立ち上がって胴回りから下半身にかけての筋肉と関節が痛いことに気づく。足を前に出すたびに痛い。原因はわかっている。昨日、素晴らしく晴れ渡った日に、あらたさんとスケートボードをしたんだ。ほんとうによく晴れた日で、バイクを飛ばすにも、スケートボードをするにもうってつけの日だった。最近は人とあまり会わないムードなんだけど、あらたさんとバイクに乗ってスケボーしに行く約束はそのずいぶん前からしていたし、それに、バイクもスケボーもあらたさんも全然嫌な感じがしなかった。「10時に小金井公園の駐車場で」という連絡が前日にあったので、余裕をもって荻窪の家を9時過ぎに出たんだけど、青梅街道に出てすぐのところでバイクがガス欠してしまう。ガソリンスタンドまで140キロを押しながら歩道を20分歩くと汗だくになった。汗をかきながらガソリンをKAWASAKI 250TRのライトブルーのタンクにゴクゴク注ぎ入れる。何だか自分が腹一杯潤った感じになって、エンジンの始動音を聞いた途端、疲れが吹っ飛んだ。遅れる連絡をしていたので、公園の駐車場に着いたときにはあらたさんはまだいない。少しして、4気筒の爆音とともにmassiveでmuscularなBMW S1000Rが登場。あんなバイクを町で乗っていいのだろうか。あらたさんはリュックと背中の間にボードを横にして挟んでいて、大きいリュックに縦に入れて背負ってきた自分のスタイルよりカッコいいな。

「バイク、20分押して、エネルギー切れしちゃって。そこの売店で軽くカロリー摂っていいっすか」

「いいよ、カロリー摂っておきな」

「結構広いっすね、ここ」

「だいぶ久しぶりに来たけど、いいね」

「家、近いんすか」

「10分」

売店で肉まんを注文し、店内で出来上がるのを待っているときに、ガラス張りの店内から外を見る。子ども連れのお母さんたちや、お年寄りたちが散歩しているのが見える。その向こうに大きな広場があって、芝生がキラキラしている。

「こんなとこで働くのもありっすね」

「俺もいま、それ言おうとしてた」

「うん、わるくないっすね」

「いいんじゃない、なんか、あすかに合ってると思う」

「ま、でも遠いっす」

「ちょっと遠いか、さすがに」

肉まんを食べて、パーク内にあるスケートボードエリアに行く。20代から40代くらいの男たちが10人くらい既に滑っている。手前にレールやボックスが置いてあるエリア、その隣に奥に細長いフラットエリアがあり、そこで適度な距離を保ってみんな滑っている。急にためらいモードを発動した僕に対して、あらたさんが救いの指を差す。

「あそこ、初心者エリアって書いてる」

「そこで滑りましょう」

「初心者エリアって書いてあるのが、ありがたいね」

「そうっすかね」

「ここにいるだけで初心者ですってわかるから、気にしなくていい」

「ところでそのボード、滑れるんですか」

初心者エリアは他のふたつのエリアよりひとまわり狭いけど、僕たち以外に誰もいない。

スケボーに行った話に少し飽きてきたので、続きはまた今度書くことにして、今日見た映画のことを書いておきたい。

今日は2本見たんだけど、1本目は試写で見たのでここにはまだ書かないことにして、夜に見たイーストウッドの『ブラッド・ワーク』について書く。イーストウッド好きと自称しておいてこれは初見。イーストウッドのほかの作品にもあるように、これは刑事ものであり犯罪ものであり、つまりジャンル映画の枠に入っている。だから最近見たジュスティーヌ・トリエの『落下の解剖学(Anatomy of Fall)』がトリエが自ら、ジャンルの枠のその先を描きたかったんだ、と言っていることや、じゃあその枠に収まらない何を描こうとしているのかについて考えていたことと、自分の中で呼応するものがあった。わからない。たとえば、法廷ものである『落下の解剖学』では、法廷という場や見えない真実を巡って飛び交う言葉や言説のあいだにある、客観的な真実と個人の真実の違いや、そのさらに潜在的な部分の、言葉にできないわからなさとか、感情の揺らぎを被写体をどう撮るか(カメラと人物との距離や視点の多様さなど)によって捉えようとしていたとするなら、『ブラッド・ワーク』はそんなことをしようとはしていない。

FBI分析官であるマッケイレブ(クリント・イーストウッド)は、あるシリアル・コードキラー(犯罪現場に記号を残す殺人者)に名指しで挑発されており、殺しが起きる度にメディアもその対決構図を大々的に報じる状況にある。そんなときに、マッケイレブは犯人と思しき人物の追走によって心臓発作を起こしてしまう。「2年後」という表記ととも回復した様子のマッケイレブだったが、2年待ってようやく移植された心臓のドナーが、ある殺人事件で殺された女性のものであることを、その女性の姉グラシエラに知らされ、犯人探しを求められる。既にFBIを辞めていたマッケイレブが、その仕事を自らに課すのは使命感からだろうか。術後間もない体でハードな仕事をしようとしているマッケイレブに対して主治医が断固止めるのも無理はない。、「(被害者の)彼女は移植のために死んだわけじゃない」と言う主治医に対して、「Accident is fate, murder is evil」と言って、誰かが犯した罪と生き返らされた自分との関係を無視することができないと言いたいようだ。心臓は心臓であり、命は命なのだから、奇跡的に生き返らされた命を粗末にしてはならないという主治医の言い分は筋が通っているように思う。マッケイレブにその道理が通じないのは、彼にとって、生きるということは、命があるということだけではないからだ。それは別のシーンで彼の言葉で表されている。操作が進み、マッケイレブ主治医の協力が必要となり、グラシエラとともに再び主治医の元を訪れたときに、協力と引き換え条件として血液検査をしなくてはいけなくなる。高熱を出しているマッケイレブの状態を危惧したための措置だ。そんな状態のマッケイレブを見たグラシエラが捜査を頼んだことを反省しようとすると、マッケイレブはこのように言う。

“I got a NEW HEART but I didn’t necessarily get NEW LIFE. I’ve lost something. Knowing you, working with you on this, I feel whatever coming back”

「新しい心臓はもらったけど、必ずしも生き返ったわけじゃなかった。何か無くしてた。君と出会って、捜査一緒にするようになって、なんか戻ってきた感じ」

イーストウッド映画の登場人物はよく生き返る。文字通り死の淵から生還することもあるけど、それでもいつも死んでるみたいに生きてるところから”come back”することを意味している。come backした結果、残酷なことを経験することもあれば、冷酷な反撃に出ることもあれば、自分の命を恐れることなく差し出せるような誰かに出会うこともある。そういう「生きてる」感じを獲得するための、通り抜けなきゃいけないpathとしてのジャンルものの型があるような気がする。だから、それがミステリー仕立ての犯罪ものであろうと、その問題解決は物語的旨味として用意はされているけど、たいしてどうでも良かったりもする。『ブラッド・ワーク』は、与えられたHEARTとLIFEが犯人の意図するものと重なっているというのが皮肉な仕掛けで、上手くできている。マッケイレブの「生きてる」感じには、さっきの台詞にあるようにグラシエラへの気持ちもあるが、FBI分析官として事件のネットワークが身体の一部であるかのように、つながっている感じも含まれている。それが犯人の求めていたことであり、承認欲求やナルシシズムを満たしてしまうことにもなるのだ。

ともかく、ジャンル映画といったときにこの映画は、そのジャンルが持つ枠の中で演じること自体が、なんか生きてる感じをもたらすタイプの映画だ。言い換えれば、秩序のある枠の中で、それ自体を否定せずに、擬態・模倣することで、別の生を創出することだといっていい。ここまで、言語化できれば、今日はもう寝ていい。

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