近所に住んでる友だちと僕のうちで昼ごはんを作ってケリー・ライカートの『ショーイング・アップ』を見るという予定があったのだが、昼前に彼女から体調が悪いから延期したいという連絡があり、暇になる。『ショーイング・アップ』は一度見ており、彼女にも見てほしいと思ったからだったが、一人でもう一度見ることにする。その前にオーケーストアに買い物に出た。天気がいいので20分歩いていった。先日辞めたレストランの厨房の仕事のために買ったコックシューズを履いて歩く。始めてから2ヶ月で辞めた仕事だった。靴も綺麗なままだ。コックシューズは見た目でコックシューズとわかるので、外で履きにくいなと思っていたが、長時間の立ち仕事に耐えられるよう設計されただけあって、ソールが適度に分厚くクッション性があり、靴底も滑りにくいため地面を捉える感覚が気持ちよく、散歩にうってつけだ。防水加工なので少しの雨なら心配ない。オーケーストアでは、米5キロと豚の肩ロースの塊を買うのが主な目的で、冷蔵庫の野菜とともにボリートするつもりだ。お腹が空いた状態でスーパーに行ってはいけない。お徳用コーンスープ、袋ラーメン、袋詰めミニドーナツ、助六。余計なものをたくさん買ってしまった。現在無職なのだ。
買ってきた肩ロースに塩を振ってラップをし冷蔵庫で寝かせる。明日用の仕込みである。そして現在の空腹はドーナツで満たす。買ってよかった。
『ショーイング・アップ』を見始める。部屋にはプロジェクターと120×240ぐらいのスクリーンがあり、U-NEXT独占配信中の本作は前回も同様に部屋で見た。ただ前回は外付けスピーカーで見た(聴いた)のだが、この作品は動物の鳴き声や車の音や製作中の手触りの音、そしてアンドレ・ベンジャミンのフルートなど、聴きたい音がたくさんあるので、今回はヘッドホンで聴くことにした。
冒頭を少し追いながら書いてみよう。
オープニングクレジットとともに映される何枚ものスケッチにはどれも女性と思われる人物のポーズが描かれている。木琴だろうか、ポロンポロンという感じのメロディ。女性たちは手を前に出して佇んでいたり、踊っていたり、運動をしていたり、歩いていたり、でんぐり返しをしていたり。何かの動作の途中のようでもあり、何でもない放り出された時間のようでもある。リジー(ミシェル・ウィリアムズ)が机に向かって粘土でできた20センチ大の人の形の像を制作している。机に向かうリジーの背後から光が来ており、そこに向かってゆっくりパンをしていくと、半開きになったガレージのシャッターの外で鳩たちが地面を啄んでポッポポッポと鳴いている。2階構造になった住居の1階がアトリエで、2階が居住スペースのようだ。飼い猫は2階にいる。父との電話で8日後に彼女の個展が開かれるという。父の家にはよくわからない居候者がいるみたいで、リジーは心配している。電話の最中に外から車の止まる音が聞こえ、リジーは電話をしたままベランダに出る。トラックから降りてきた女性はタイヤを持って揚々としている。タイヤを転がして空き地に向かう女性。カメラの横移動が運動を捉える。空き地の木にロープでタイヤをぶら下げてブランコにしようとしている。リジーが空き地を訪れて、不機嫌そうに家のお湯が出ないことの文句を言う。その女性ジョー(ホン・チャウ)は同じく個展を間近にひかえたアーティストでもあり、隣人でもあり、大家でもあることがわかる。リジーはどこか不機嫌でジョーは陽気な感じだ。運動を捉える人と運動の人、そんな感じもする。
リジーは数日後に控えた自身の個展のための制作でナーバスになっているが、そんなときに限ってというか、そんな状況だからなのか、いろんなことに彼女は気を揉まされる。ジョーとの間にあるあれこれは一旦置いておいて、二人の間に新しく入ってきた闖入者がまず彼女の心配事になる。夜、自分の飼い猫が襲ったことで怪我した鳩をリジーは「他のところで死んでね」と言って外に放ったのだが、翌朝それを知らないジョーがその鳩を拾って一緒に救護し、リジーはより間近の個展の準備で手が離せないジョーに変わって、その鳩の世話をする羽目になる。せっかく仕事の休みをとって制作に当てようとしていた日が鳩の診察で潰れたとリジーはジョーに文句を言う。鳩のためにアトリエではなく2階の住居スペースで制作することを余儀なくされたり、ジョーがちゃんと世話をしているのか気になったりと、気を揉むリジーに関係なく、鳩はポッポポッポと鳴いている。それが何だか可笑しい。そうやって最初は厄介事だった鳩に対して彼女の中で段々と愛着みたいなものが出てきて、積極的に世話を引き受けたりするようになる。リジーは自分の周りの心配事を被っているように一見見えて、そもそも結構心配性というか他の誰かのことが気になる人であり、さらにその心配事が、鳩の鳴き声がそうするように、どういうわけかユーモアに変わっていく。父と兄に対してもそうだ。リジーは制作のための時間が惜しいはずにもかかわらず、これといった要件も無く父や兄の様子を見に訪れる。父のかつて制作した陶芸作品が並んだ作業部屋での会話の中で、リジーは父の今の生活を心配して、また陶芸をやったらとか、居候者たちは友達じゃないよ、などと言うんだけど、それを気にも留めないかのように、父は「見つかった」と兄ショーンの服を見つけたことで声を弾ませているのが可笑しい。兄のショーンが一人暮らしをしている家に行ったときも、最近どう?と心配するリジーに対してショーンは、自分でこしらえたラグーパスタをむしゃむしゃ食べながら近所の人たちのささやかな陰謀論の話をし始める。これも何だか可笑しい。この自分を取り巻く一見すると厄介な関係、悩ましい関係において、それを悩ましいものと思わせる、たとえば家族としての情や責任、他者に対する道義的責任、あるいはそこまで言わなくても「関わらないではいられない」といった何かがあって、そしてそれに伴う自分の思惑や願望があるのだけれど、それがその誰かにとっては全然大したことじゃなかったりする。それで、全然関係ない話や態度や声なんかが出てきたときに、なんか可笑しいし、居心地良いなと感じる。それがユーモアなんだと思う。たとえるなら、誰かとの関係で発生する摩擦を、自分の自由を制限するものとしてではなく、その摩擦の音を聴いてみると、そのあっけらかんとした音の可笑しさや心地よさが感じられる、というような。そして、それがこの映画の試みなんだと思う。ラストに大仕掛けのユーモアが用意されてて、それはもう可笑しいとか以上に、もう、泣きそうになる。
クレイグという青年が登場するんだけど、こいつがめっちゃ好き。リジーが最初にショーンの家を訪れ、ショーンが近所の人が電波妨害をしているという話をしているときに、ドアをノックする音があって、リジーが出るとクレイグだった。「君の車があったからあいさつしに」とリジーに言って入ってきたクレイグにショーンは「何か探りに来たんだろう」とあらぬ疑念を示すが、クレイグは反論することもなく、いつもの感じなのか、静かに受け止めている。ショーンの家を去る時、リジーがクレイグにショーンの近況を聞くと、最近は何もしてないと思うと教えてくれる。(表に停めてある車に向かって歩きながらそれを聞いたリジーは心配そうな、悩ましい表情をして、それから車の前で視線が表に停めてある車向いたとき、「I rescued a bird」と言う間の可笑しさ、表情の変化の可笑しさをどう表現したらいいでしょうか!!)車に乗せている鳩をクレイグに見せると、柔らかい笑顔になってただ「cool」 と言う。次にクレイグが登場するのは、リジーの母がリジーの個展に一緒に行くためにショーンの家を訪れた時だ。ショーンは留守で、裏庭を覗くと、ショーンが掘った大きな穴を見て立っているクレイグがいる。ショーンの母が声をかけると、クレイグは何ということもなく振り返る。クレイグはショーンの母に、ショーンは時々公園を歩いて92番アベニューの店に行くよと教えてあげ、シーンが変わり、彼女の車の助手席にクレイグも乗って、公園沿いの通りでショーンを探し、またシーンが変わり、見つからなかったのか、クレイグと母の二人でリジーの個展にやってくる。クレイグは、なんなんだろう。ショーンの友だちと紹介されているが、別にショーンと特別友情を示すエピソードもなければそんな情景も描かれない。ただ、ショーンの近くにいつもいて、ショーンの近況や習慣も知っていて、庭の穴が気になって見に来たりしている。なんの理屈も説明も意味付けられる何かも無しに、ただショーンの近くにいて、彼とほかの誰かのあいだでつながっている。ライカート作品らしい人物だと思う。
そもそもライカートが芸術制作をテーマにしたこの作品を撮ろうとした最初は、エミリー・カーというカナダの芸術家の調査からはじめて、スタジオでのアーティストの制作を描こうとしたという話が、2022年のNew York Film Festivalでの監督ライカートとジョーを演じたホン・チャウを迎えたトークセッションにおいて話されている。また、映画の中でミシェル・ウィリアムズとホン・チャウは、それぞれジョーとリジーというアーティストを演じているが、その作品は実際のアーティストの作品であり、クレジットにもあるとおり、リジーの作品はCynthia Lahti、ジョーの作品はMichelle Sergeによるものだ。そこで、ホン・チャウが話す通り、撮影前にアーティストのスタジオを訪れて、演技のための制作テクニックや手法を教わりにいったのだが、Michelle Sergeはホン・チャウに、作品というのはパーソナルなものだから、私のパーソナルな部分を除いてテクニックや手法を身につけて作品の制作者を演じてもイメージできないと言ったそうだ。これは難しいけど面白いことだなと思う。ライカートも言っているように、別の人が実作者本人を同様にして演じることはできないけど、この場合の作品はただの映画美術や小道具ではなくて、それを作る人を描く上で呼応してくるもので、だから作品が持っているパーソナルな力が、それを作る人の役とその役を演じる人に影響してくる。考え出すと難しくなってきたので、一旦やめる。
この作品はライカート作品でよく舞台になるオレゴンのポートランドで撮られている。出てくる芸大は作中でもそのまま名前が出てたようにOregon College of Art and Craft (OCAC)だけど、2019年に資金難で閉鎖され、その後敷地ごと近くの私立の学校に売られたようだ。このような町は東京だと、日本だとどこにあるのかなと思う。緑があって、通りにはスケーターが普通に滑ってる。アトリエは町の中心地にあると話されており、車移動のシーンもあったからアパートのあたりと距離はあるのかもしれないけど、ラストのリジーとジョーが歩き去る通りなんかも、ちょっとさびれ気味の建物や工場が見えて良いなと思う。『にわのすなば』の町がこんな感じだったような気がする。少し調べたら埼玉の川口市らしい。来週、出演してた新谷さんに会う予定があるので聞いてみよう。
